〜親の祈りの中で〜

 最近の子育てについて、親の側の態度にはいささかついてゆけないものを感じる。子どもの人格、人権を認めるという事が、年端もいかない子どもを甘やかし、本人の言いなりにすればそれで良い、という親が多い。例え人間といえども、何も知らない純真な赤子は、社会の中で、人に迷惑をかける事なく、自立の道を進む人間としての訓練をされてゆくのは当然で、増してやそこに幸福な生涯とか、心豊かな人格とか、高邁な夢とがプラスされての人格の形成を含むとなると、育くむ親の苦労や心痛は、なみたいていではない。
 毎日の葛藤であり、ジレンマであり、笑いであるはずである。それが、いとも簡単な毎日の流れになったり、親の一方的な、或いは感情的な拒否で終わったりでは、一人の子どもと親との絡みの起伏は、誠に単調で深みがない。
 中には、子育ては、叱っちゃいけない、おこっちゃいけないなんて、子どもの気嫌とりばかりを強調する専門家も出て、まるで子ども様々である。
 昔のようにガス、水道もなく、一家全員で生活の為の毎日を送っていた時は、どんなに小さくても子どもは家庭の中での一つの役割をm持たされていた。その子が一つそれをサボる事によって、一家中が前に進めなくなる、生きていけなくなる、そんな大切な役割であった。従って子どもは一家にとっても大切な存在であった。一家中が怒ったり、泣いたり、喜んだりして、お互いの肌と肌とがぶつかり合っていた、正に人間生活って感じがしていた。そんな中で気の配り方、心の使い方を体で覚えた。
 今の子ども達は、そんな大切な役割も与えられない。与えられなくても一家はうまくいってしまう。その子が半日いなくても気がつかない。まるで存在感かない。いてもいなくても良い存在となる。
 昔は、例え病んでも、心配の仕方は大変なもの。母は、祖母は、身を切るような寒さの中で、早朝のあけやらぬ内、寺の観音堂でお百度を踏んだ、水行や滝行をした。母の必死の祈りで子どもを守った。
 今はよく効く薬、病院にぶつくさいいながら連れてゆく、長い時間待たされたことに腹を立て、母として心の祈りを忘れ通りすぎる。
 子どもが親から祈られてない。子育ては愛、愛は身を挺した祈り。祈られた子どもは、目や顔の輝きが違う。心が豊か、人を思うことができる。祈られた子どもは、幸福せになる。人をも幸福せにする。
 祈られて育った子どもは、親の心が解り、また自分も祈って育てることが出来る。祈られて育った子どもは、感謝が出来、命を大切にする。
 結局、子育ては叱っても良い、お互いが人間としてつながった毎日をもっていればこそである。育てる側に愛があれば、祈りがあれば……。
 そのことが子どもの人格を認めることである。物で栄え、心で滅ぶ所以もここにある。