八百屋お七の供養塔

観音堂の向かって右前(大銀杏の反対側)に高さ約四・五メートルある石塔は古くから「八百屋お七の供養塔」といわれている。
 八百屋お七は江戸本郷の八百屋の娘で、天和二年(一六八二)の大火で自分の家が焼けたので、一家は檀那寺の駒入吉祥寺に避難した。この時寺小姓(浄瑠璃では吉三郎)恋仲になった。その後、自宅へ帰ったが恋慕のあまり、また家が焼けたら吉三郎に会えると思い、自分の家に放火して捕らえられ、鈴ヶ森で火刑になったという物語の主人公である。
 いまなら、さしずめ“翔んでいる女”の元祖のようなもので、のちに井原西鶴が「好色五人女」に書いて以来、浄瑠璃や歌舞伎に上演、脚色されて有名になった。
 大正時代の初めには、この地方でもこの話を題材にした「のぞきからくり」が流行したもので、この口上の文句に

もとから先まで毛の生えた        唐もろこしを売る八百屋
唐茄子、南瓜を売る八百屋        いっそ焼いてしもうたら
可愛い吉さんと二人連れ         臍くり逢う瀬もできようと
そこが女のあさましさ          一つの俵に火をつけりゃ
パッとあがった火の煙り         誰知るまいと思うたに
長屋の武兵衛さんに見つけられ      連れて行かれた御奉行所
一段高いはお奉行さま          三尺下がってお七坊
私の生まれた年月は           七月七日の七夕で
それにちなんで名もお七         十四といえば助かるに
十五といったばっかりに         裸の馬に乗せられて
通りかかった品川の           色街女郎衆のいうことにゃ
あれが八百屋の色娘           吉さん惚れるは無理はない
云々などとあるが、一説に、お七は美人どころか、天然痘を病んでアバタ面であったなどという説もある。
 それはともかく、このお七が刑死したのち、兄の吉五郎という者が六部になって諸国の寺を行脚して、お七の供養をして歩いたとき、この地に立ち寄り、これを建立したものといわれているが、先端の銅板部分に「願主 大江朝臣広包」などの名があるから、「八百屋お七の供養塔」というのは怪しい。なお、広包は吉敷毛利家の五代で宝永七年(一七一〇)から元文二年(一七三七)まで当主であった。