奥の院と磨崖仏

いまを去る千三百余年のむかし、文武天皇の二年、役行者がはじめて豊後国(大分県)の彦山から来て、岩窟で護摩供を修し、これを「龍の蔵」と名付けたという奥の院は、鼓の滝の奥にある。
 鼓の滝に架かる橋は昭和五年につくられたものであるが、昭和四十七年の大水害によって流矢し、そのころは龍蔵寺の入口にある紅葉橋の手前から右に行き、本堂の裏側の山道を登る(この道はまた龍蔵寺境内の境界でもある。)本来は観音堂の横から右へ鼓の滝下段と中段の間を渡って行くが、古くは左の方へ行って、もと開山堂(のちに稲荷堂になった)があった方へ行き、滝山をめぐって奥の院に出て、この鼓の滝へ下って来たものである。この道には、いまも一番から八十八番までの地蔵が順番に並んでいる。
 鼓の滝から奥の院の方へ谷川ぞいの道を行くこと約五百メートル。唐突として眼前に立ちはだかるかのように、高さ約二十メートルもあるかと思われる一大岩壁が現れる。その岩壁の正面をみると、わずかに線刻の磨崖仏が画かれているのが見える。長さは約四・五メートルくらいか。昔ははっきりしていたが長い歳月の風雨にさらされ、また苔やかずら等のために、すっかりうすれて、いまはただわずかに痕跡をとどめているのみである。
 この磨崖仏が、いつごろ、誰の手によって画かれたものか分からない。伝説によると、弘法大師の手によるというが、専門家の話によると鎌倉時代のものであろうとされている。
 川を渡って岩壁の下へ行くと、大きな岩窟になっていて、そのなかに苔むした羅漢像が数個並んでいる。むかしは五百羅漢があったというが、岩窟の大きさなどからすると十六羅漢(『風土注進案』などには十六羅漢と千躰地蔵とある)であったのではないか。それにしてもいまは数個だけというのは、いつのころにか心ない人たちによって持ち去られたものであろう。
 この大岩の岩窟は、山岳宗教が盛んであった時代には、多くの修験者たちが訪れてここを中心にして滝山をかけめぐり、行を積んだものであろう。そうした特異な行者たちの姿は村の人たちには異様に見え、恐れられたものであろうか、村人たちはこの大岩を“天狗岩”といって恐れていたという。いま静寂そのもの、まるで俗界をはなれた別の世界の観がある。わずかに清冽な谷川のせせらぎと、そして時おり木立を渡る鳥の声がするだけである。
 この大岩の上に登ると、山口盆地を眼下に見ることができる。その向こうには盆地を囲む山々が連なり、さらに雲の彼方は役行者がこの地を発見したという豊後国である。現実の問題として、彦山からこの地が見えるとか見えないとかは論外である。この奥の院の大岩の上に身を置くと、自分も千数百年の昔に空を飛んで来たという、役行者になったような気持ちになる。