観音堂



馬頭観音は梵名をハヤグリ心といい、何耶掲喇婆・何耶掲哩縛(はやぐりぶ)などと音訳するが、漢訳して馬頭(ばとう)という。この尊はインド教のビシュヌ神(無量壽仙)の一化身にその源をもつといわれている。現在ではただ変化(へんげ)観音の一尊として信仰されているが、とくに密教では馬頭明王とも呼び、この他馬頭威怒王(ばとういどおう)、馬頭金剛、大力持明王(たいりきじみょうおう)などとも呼ばれ、八大明王中の一尊としてもあげられている。
 八大明王とは、八方守護をつかさどる八体の明王のことをいい、八大菩薩の変現したもので、降三世(金剛手菩薩)・大威徳(妙吉祥菩薩)・大笑(虚空蔵菩薩)・大輪(慈氏菩薩)・馬頭(観自在菩薩)・無能勝(地蔵菩薩)・不動(除蓋障菩薩)・歩擲(ぶちゃく=普賢菩薩)の明王をいう。また一説に、不動を除き、穢積(えしゃく)金剛(鳥枢瑟麼)を加えて、これらを不動の眷属とするものである。
 馬頭観音が仏教経典にとりあげられはじめたころには、金剛・明王の名で呼ばれるものばかりで『不空羂索経』には観音として説かれはじめており『大日経疏』においては、この尊を蓮華部念怒持明王と名づけて、観音部の一隅に列することを説いている。これらの経典以後には馬頭尊を観音に一変化尊と考えるようになり、不空訳では、衆生の煩悩をタン食する力を発揮する観音として説くようになった。
 その尊形については、経典によって異説が多く、一面二臂・四面二臂・一面四臂・三面四臂・三面八臂・四面八臂などがあり、その性格から相好には忿怒的なものが多く、頭上に化仏のほかに馬首を置くように説くものが多い。また、馬頭人身の像が胎蔵図像には掲げられている。このようなことから畜生道の尊として、とくに江戸時代から馬の保護神として広く信仰されるようになった。 

伝雪舟の絵馬



 観音堂内の正面に、一枚の絵馬の額がある。
古くから画聖雪舟の作といわれたもので、あまり見事であるために、この馬は夜な夜な脱け出しては付近の田畑を荒らすので、とうとう雪舟にお願いして手綱をつけてもらったため、それからは出なくなったという伝説がある。『風土注進案』には「古法眼墨画之馬ノ額 壱枚」とある。この古法眼とは狩野元信のことであろうか。専門家の言によると、この絵は江戸時代中期のものという。
 しかし、この絵馬の場合には、そんな詮索はしない方がよい。信仰と伝説のなかにあることが望ましい姿であろう。ここでは「防長の美」(清永唯夫著。昭和五十一年一月、山口県新聞社発行)に掲載されているものを紹介しよう。
 (前略)この絵馬は、画聖雪舟の筆によるものと伝えられ、金箔で桐と菊を装飾的にあしらった背景の中に、たてがみをきれいに飾り、首をふり、左前足をふみ出した黒馬が、手綱にしばられている絵柄のもの。
 そして、この絵馬には一つの伝説がある。それは、絵中の馬が立派に描かれているために、夜な夜な絵馬から抜け出して、近所の田畑を踏み荒らすため、雪舟に頼んで手綱をしっかりと描いてもらったところ、それからは馬が抜け出して迷惑をかけることがなくなったという話である。
 左甚五郎の竜の彫物などとともに、よくある説話であるが、じっくりとよく見ていると、手綱をいやがり、いかにも自由になれぬことに困惑した感じの馬の表情が静かに伝わってくるようである。
 雪舟筆の信憑性はともかくとして、やや絵画的にもデホルメされた姿態の中に、いかにも大家の作としての味わいを感じさせる華麗で、気品もある格調高い馬図である。
 (中略)この絵馬は、現在、龍蔵寺観音堂の内部正面、馬頭観音を安置する厨子の上に掲げられているが、ムササビやきつつきにつつき破られた板戸のすき間や、穴からもれ入って来るかすかな光に浮き出ている黒馬の姿は、またひとしおの情感をただよわせている。
 “伝雪舟筆”といたことも、山口天花の地に庵をむすんでいた雪舟であってみれば、彼の作がこの地にあっても何ら不思議はない。・・・といったような思いに面白さがあり、またそこに伝承によって立つところもあるわけである。
 歴史的にみても、神社、仏寺に対する絵馬奉納が普及増大してくると、絵馬の奉納場所もそれなりのところが求められ、神社に絵馬堂というものが興ってくる。寺院において、この絵馬堂に相当するものが、現世利益的な信仰の対象として広く親しまれていく観音堂であった。
 (中略)龍蔵寺観音堂の御本尊さんは馬頭観音、牛馬の観音として古来から名高く、現在でも毎年二月十七日、八月九・十日に行われる大法要には近郊の牛馬が参詣するという。雪舟はどの画家でも絵馬を奉納するにふさわしい寺ということにもなる。
 事実、伝雪舟絵馬の他にも、当寺馬頭観音にちなんで、雪舟の流れをくむ雲谷等顔が書いたという幅一メートル、長さ約六メートルの板四枚という長大な絵馬が本堂正面の軒下に掲げてある。その絵馬の上下二段、あらゆる毛並み、さまざまな姿態をとられた三十三頭の馬が描かれていて、一頭一頭が興味のつきない面白さをもっている。名刹龍蔵寺は、防長屈指の“絵馬寺”ということも出来よう。
 ともあれ、民衆に直結した絵画美として、私たちは絵馬にも十分な関心を寄せる必要があろう。

伝雲谷等顔の絵馬



本堂正面の軒下いっぱいに、上下二段に合わせて三十三頭の馬の絵が掲げられている。このあらゆる色のもの、さまざまな姿態をした馬の絵は、もと観音堂にあったもので、長さは約六メートル(三間三尺)、幅約一メートル(三尺三寸)にもおよぶ長大なもので、四面に分かれていて、そのうち三面には八頭づつ、残る一面には九頭がおさめられている。この材は羅漢松(くさまつ)の一枚板で、三十三頭という数字は観音の三十三身に捧げるものという。
 これが雲谷等顔の筆になる絵馬といい伝えられているもので、『風土注進案』にも、龍蔵寺の寺宝の一つとして出ている。雲谷等顔は天文十六年肥前に生まれ初名を原直治、通称を治兵衛といった。はじめ絵を狩野松栄に学び、のち釈楊門に従学して雪舟派に転じた。毛利輝元に招かれて雪舟の旧蹟である山口天花の雲谷庵を賜って、画業をもって仕えた。名も雲谷等顔と改めたのはこのときで、雪舟派四世となった。その長子は等屋(とうおく)といい、広島の福島家に仕えていたが、その改易後は萩藩に仕えた。二男の等益(とうえき)は父の後とを継いで雪舟派五世を称し、この子孫が代々画業を世襲した。
 この絵馬が等顔の手によるものか否かは疑問であるが、眺めていると面白い。いまは農家には馬は皆無に近い状態で、本当の馬を見たことのない子どもたちが多くなっているが、これを見ると馬というものが理解されるのではないかとさえ思わせる。たとえ誰の作によろうとも、この絵馬は江戸時代における名作のうちに入るものであろう。
(注記)その後、この絵馬は収蔵庫に納められた。